2003年

ーーー7/1ーーー 夏子の酒

 
家内が古本屋で「夏子の酒」全12巻をまとめて買ってきたので、久しぶりに通して読んでみた。これは、日本酒造りをテーマにした漫画本で、蔵元の娘夏子が幻の酒米を復活させ、究極の酒造りに挑戦するというストーリーである。農業と酒造りの本質に迫る、感動の名作であり、現代の日本酒文化に少なからず影響を与えた作品でもある。分野は違うが、物造りに携わっている私にとって、襟を正されるようなところもある。

 このところ少し日本酒から遠ざかっていた私だが、これを読み終えたところで、急に純米吟醸酒が飲みたくなった。そこで、近所の大型店へショッピングに出かけたついでに、酒売り場を物色し、一本購入した。「夢」という名の付いたその酒を選んだのは、ほとんど気紛れであった。強いて理由を言うならば、酒造好適米として有名な五百万石を使っていることくらいだった。価格も、純米吟醸酒としては、高くも安くもないものであった。

 それを飲んでみて、香りの豊かさと味の深さに驚いた。ほとんど感動に近いものであった。平均レベルの価格の酒が、こんなに美味であって良いのだろうかという、奇妙な気持ちにさせられた。

 それから三週間ほど経っても、その酒のことが気になって、頭から離れなかった。そして先週のある日、インターネットで調べてみることを思い立った。その市島酒造という新潟県の酒蔵は、なんと江戸中期から酒造りをしているとのことであった。宗家は越後を代表するほどの豪農で、土地の名家であり、その建物は文化財として残されていると書かれていた。由緒正しい蔵元だったのである。この酒蔵の作品は、今年の全国新酒鑑評会で、金賞を受賞している。

 その市島酒造の製品のリストを眺めていたら、純米酒の中に「杜氏の華」という銘柄があった。その名前の説明として、この酒造で働いている女性杜氏たちの心意気を現したものだと書いてあった。全国で初めて、女性の酒造技能検定合格者を輩出したのが、この蔵元であることも知った。その女性杜氏の記述を目にして、私の頭に一つのことが思い出された。

 「夏子の酒」の中に、こんな下りがある。酒造りの現場に出入りしている夏子に向かって、ある職人が、女がうろうろしては困ると文句を言う。酒蔵は神聖な場所であり、男だけが出入りを許されるものだと。それに対して杜氏の頭は、時代遅れの考えだと逆に叱責する。その職人は妻の出産のために短い帰郷をするが、戻って来たときに一本の酒を土産として夏子に差し出す。その品物には、夏子に対する謝罪の気持ちが込められていた。その酒は、女性の杜氏が働く蔵元で造られたものだったのである。

 私はこの下りを思い出し、もう一度その部分を読み返してみた。そうしたら、夏子に渡されたその酒は、実在する銘柄のものであることが分かった。市島酒造の純米吟醸酒「夢」だったからである。

 「夏子の酒」が語る日本酒の世界に誘われるようにして、数多い種類の中から、たまたま選んで手に入れた酒が、実は「夏子の酒」の中に登場している酒だったのである。この偶然の出会いの顛末は、私を有頂天にさせた。何かの引き合わせのようなものを感じた。ひょっとしたら松尾様(酒造りの神様)のお導きかも知れない・・・。あまりの嬉しさに興奮し、その日の午後パートから戻った家内に、熱してそのことを語った。そしたら家内は、疲れた表情で、たかがお酒のことでそんな大声を出さないでくれと、あっさり片付けた。



ーーー7/8ーーー クッション座

 
先週、アームチェア「CAT」を一脚組み上げた。この一脚も、従来通り編み座のものである。CATは編み座を前提に設計されている。そこに凝縮されているノウハウは、自分で言うのも何だが、かなりのものだと思っている。もちろん、座を編んでくれる金沢さんという職人の、腕の良さにも支えられている。

 板座バージョンを作ったこともある。椅子の座の種類を変えて作るというのは、この業界ではよくやることである。板座バージョンは一脚だけ作ったが、いまだに売れずに残っている。私自身は、板座の椅子というものが、あまり好きではない。当りが固いし、冬は冷たい。かと言ってざぶとんを敷けば、せっかく思いを込めて加工した座面が見えなくなる。また、ざぶとんは滑るので、隅をヒモで止めたりするが、そうすると見映えが悪い。このように、自分があまり好きでないせいか、宣伝が不足しているのだろう。出来が良かった割には、このバージョンはまだ売れていない。

 次は、クッション座のものを作ってみようと思う。従来の編み座で何ら問題は無いのだが、クッション座にすれば、また雰囲気が違ってきて、お客の層が広がる可能性が有る。

 というわけで、ちょうど組み立てが完了した品物が手元にあるチャンスを利用して、椅子の座のクッション張りを専門にしている会社へ出向いた。椅子の現物を見せ、これをクッション座に変更するには、どのようにしたら良いか、相談するためである。初めて訪れたその会社の所在地は、松本の木工団地のそばであった。

 相手は職人たちであるから、最初の取っ付きは無愛想である。こちらが「こんにちは」と挨拶をしても、両手で広げたスポーツ新聞の向こうから、チラッと視線を送って来るような、お出迎えである。それでも、具体的な話になると、乗ってくる。スポーツ新聞をバサリと投げ捨て、この隅の納まりはこうしたら良いとか、フレームはフラットに変更し、高さを10ミリ程度下げる必要があるとか、いろいろアドバイスをしてくれた。そして、ともかく一度で完全なものは出来ないから、試作品で合わせながら詰めていきましょう、ということになった。

 張りの試作は簡単だろうが、椅子本体の試作は大変なんですよ、などと不平を言っても仕方ない。とりあえずは、元の図面をベースにして、あらたな図面を起こさねばならない。その図面ができたら、型紙を取り、試作品の制作に入る。例によって、先が思い遣られる手間の数々である。しかし、これをクリアーしなければ、新しいバージョンは生まれない。暑い夏になりそうな予感である。



ーーー7/15ーーー コピーのこと

 改訂版CATの図面が出来上がった。A0サイズ(約90センチ×120センチ)の原寸図である。椅子の図面は、それから型紙を取らねばならないので、原寸で書く必要がある。

 この図面からコピーを取って、作業用に使うわけだが、そのコピーが難しくなってきた。以前は穂高町内にもこのサイズのコピーを扱う印刷会社が有ったのだが、数年前に店を閉じた。それからは、その会社の松本店に出かけなければならなくなった。

 先週、出来上がった図面を携えて、松本店に出かけた。ところが、有るべき場所に店鋪が見当たらない。ここも潰れてしまったのである。これは困った事になった。コピーが取れないとなると、手で書き写さなければならないのか。そんなことは絶対に嫌だ。

 私がまだ会社員だった頃、仕事の用事で九州は大牟田の炭坑会社を訪れたことがある。事務所の建物は、富国強兵、殖産興業の時代を思い起こさせるような、レトロ調であった。そこの技術部門の人と話をして驚いた。その当時ですら、石炭製造設備の図面は一切コピー禁止というのであった。図面の複製が必要となった場合は、面倒な事務手続きで許可を得た後、専門の製図士に手書きで書き写させるとのことであった。カラス口で墨を入れた図面は、それだけで工芸品のように美しかった。しかし、現代に於いてもこんなことをやっていては、いずれこの会社は潰れると思われた。

 出先で予期せぬ事態に遭遇した私は、しばらくうろたえた後、松本で一番大きいと言われる文具店に入った。田舎にしては、かなり専門的な品揃えの店である。そこの店員にたずねると、市内のコピー屋は全滅したとのこと。これはますます炭坑会社の二の舞いかと、絶望的な気持ちになったところ、ある若い店員が、市の外れのある場所に一件コピー屋が残っていると聞いたことがあると言った。そのあいまいな情報を頼りに、ここと思われる地域をうろうろしていたら、大通りから外れた裏道の住宅街に、ようやくその店を発見した。店の中に入ると、本格的な大型コピー機が並んでいて、ほっとした。そこで二枚の図面の各々から、A2サイズのコピーを取った。このサイズが、工房での作業には使い良い。

 以前利用していた松本の金物屋も、最近になって潰れた。不景気になると、家具の注文が減るだけでなく、仕事もやりにくくなり、ダブルパンチである。



ーーー7/22ーーー 梅雨と木工

  今年の梅雨は長くなった。信州は梅雨が軽いと言うが、やはり降るものは降る。夏のうだるような暑さもつらいが、こう長雨が続くと、真夏の青空が恋しくなる。

 江戸指物の流派の一つ、国政流の仕事に関して、面白い話を聞いたことがある。国政流の職人は、梅雨の時期は仕事をしなかったというのである。湿度の高い梅雨時に木を組むと、季節が変わって乾燥した時期になると、組み合わせが緩くなってしまうからというのが理由。およそ一ケ月の間仕事をしないのでは、家族にとってはたまったものではなかったろう。しかし、そこまでこだわらなければ本領が発揮できない、精密な木工の分野もあったのだ。

 仕事を休むわけにはいかないが、私もこの雨の時期には気を使う。精緻な加工を要する作業、例えば組手などは、なるべく後回しにする。普通のホゾなどのジョイント部は、加工するとしても、はめ合わせをきつく作る。つまり、ホゾとホゾ穴の締り具合を、いつもより固く加工するのである。それでも、その後2〜3日晴天が続くと、ホゾはスルリとホゾ穴に入るようになる。晴天になれば湿度が下がり、乾燥して材木が縮むからである。そういう現象を目の当りにすると、やはり大雨の時期に木を加工するのは、不安になる。

「大工を殺すにゃ刃物は要らぬ。雨の三日も降れば良い」などと昔の人は言ったそうだ。これは、雨が降れば屋外の仕事ができなくなるという意味に加えて、雨の時期に木材を加工することを嫌う意味も込められているのかも知れない。雨や湿度は、木工家の大敵なのである。自然素材を加工するというのは、それほどデリケートなのだとも言える。



ーーー7/29ーーー 岩菅山登山

 28日月曜日に、松本に住む友人のO氏と山登りに行った。場所は志賀高原の岩菅山。私にとって志賀高原は実に25年ぶりであり、しかも夏の時期は始めてである。

 山道を歩きながら、私に誘われて登山をやるようになって、今回がちょうど10年目だと、O氏から聞かされた。その最初の山行は、北アルプスの常念岳であった。その年は、まるで今年と同じように梅雨が長引き、天気が悪く、寒い夏であった。冷害で、急きょ外国から米を輸入する騒ぎになった年である。O氏にとって始めての本格的登山も、雨にたたられて寂しいものとなった。

 O氏は、地元FM放送局の看板アナウンサーである。我が家が信州に越して来た頃、その放送局が開局し、O氏は関西の大手ラジオ局から引き抜かれて松本へ来た。開局当初からO氏は、局の目玉とも言うべき番組のパーソナリティーを担当していた。私はその番組が好きで、折りに触れて投書などをした。ハガキが主流だった時代に、初めてファックスによる投書を送ったのも私だったと記憶している。そんなことからO氏と知り合うようになり、また私の家具を買ってくれた縁もあって、家族でつき合うようになった。10年前、そのO氏に登山を勧めたのは、私なりに考えるところがあった。

 自然に恵まれた信州でありながら、地元の人の自然に対する関心は極めて低いと、私は感じていた。実利を目的とせず、ただ登って降りてくるだけの登山を、地元の人は「何が面白いのか」と言う。若い頃、都会からわざわざ、夜行列車に乗ってやってきて、ただ登って降りるだけの行為にいそしんでいた私にとって、この地元民の無関心さには一抹の寂しさを感じていた。そこで私は、O氏を利用して、信州人の自然観を啓蒙することを思い立った。

 ただ知識として持っていて、それを口にするのと、実際の自然体験をふまえて話をするのでは、現実味がまるで違うものである。登山を通じて自然に親しめば、もともとリベラルな物の考え方をするO氏だから、より雄弁に自然の素晴らしさや大切さを語るようになるだろう。人気番組でそれが流れれば、多くのリスナーに影響を与えることは、十分に考えられることだ。

 私の目論みは、言わば的中した。最初の山行が期待外れのものだったにも拘わらず、O氏はその後精力的に、しかし無理をせず、登山の回数を重ねた。現在のO氏は、「山に登るアナウンサー」、「自然を語るパーソナリティー」のイメージが定着した。これはラジオ番組のパーソナリティーという、いわば軽い感じのキャラクターが多い中で、極めて珍しいことだと思う。日本有数の山岳地帯を抱え、自然に恵まれた信州の地に、まことに相応しいマスコミ人となった。

 梅雨が明けたのか明けないのか分からないような空の下、岩菅山は静かに我々二人を迎えてくれた。この10年間のことを思い出しながら、山道をたどった。夕刻、冬場の賑わいや喧噪が嘘のような、静かなゲレンデの斜面に降りてくると、可憐な花々が咲いていた。こうして、ささやかな一日の山行は幕を閉じた。




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